S.カラベの日常

 眠気に対して素直になれないまま午前4時52分、紺色の夜が薄明りを帯びて、黎明が近い。1分1秒をとても大切に思いながら、明けてゆく今日をカーテン越しに見上げ、つめを噛み、喉を鳴らして、シーツの波間で身を捩る。ナイフで切ったばかりのグレープフルーツのように青くさい光の匂い。なんだかもううんざりしちゃったな、伏せた睫毛の下でSは憂えた。

 なにもかも有り触れていて、悲惨なほどに順調だ。成功間近のプロジェクト、美しいばかりで無知な友人たち、ライブハウスの床に転がる酒瓶、贔屓のロックスターが歌いあげるヒューマニズム、ヨーロッパ旅行の計画、一向に増えない貯金、賞味期限が迫る冷蔵庫の卵。暑さ寒さに振り回され、惚れた腫れたに脅かされる日々、そういう日常の沙汰が本当に嫌になっちゃった。毎日美味しいものを食べて綺麗なきものを着てさらさらのシーツで眠る。何もかも満足なのにね。大切にしたいのは一寸先の夢物語だ。

 体の上に射した朝日を愛おしく撫でてみる。悦びも悲しみもすべて暗闇が帳消しにしてくれると信じていたのに、少しも回復した気がしない。当然のことであった。Sが何を拒絶し、何を享受したところで、太陽は律義だし、月は健気、それらは単なる恒星であり、衛星であり、特別な結果を巻き起こす魔法なんかじゃないのだ。波打つ裸をつまはじいて唄う。世界を充たす水色の空気と、自分の肌が接触する、その官能に身を震わせてこれからも生きていくのだと思った。

 シーツの波から身を起こしたSは、夏の粒子が形作る熱を予感した。寂れたアパルトメントの階下から、かすかにピアノの音色が聴こえる。こんな朝早くから随分と趣味のいいことだわ。メンソールの先に火を灯し、立ちのぼる紫煙をしばし眺めた。夜は明けたばかりだけれど、無性に星を観たいと思った。星々が再び煌めく時刻はまだ遠く、おまけにSの住む街の夜はあまりにも明るいのでどのみち宇宙はとても狭く、それならばいっそ模造の代物だって構やしない、天象儀を観に出掛けようとSは考える。今日をどのように過ごすか見通しを立てたSは、灰皿代わりのショコラの缶を引き寄せ、煙草を押しつけて火を消すと、熱いシャワーを浴びるために立ちあがった。

***

 濡れた髪をタオルに包み、タマネギを微塵に刻みながら、Sは昔のことを思い出していた。好きなものがいつしか嫌いになった、嫌いなものはやっぱり好きになれないままだ。そうして少しずつ嫌いなものが増えてゆく中で、いつまでも好きでいられる何かを死ぬまでに見つけられるかしら、Sは憂えている。自分のことをいつまでも好きでいてくれる誰かを死ぬまでに見つけられるかしら、Sは案じている。ふと優しさだけが取り柄の恋人のことを考えた。かつてはとても愛していたはずだったのに、愛おしさを反芻するうち、純粋化された記憶はやがてリアリティを失った気がする。もう彼のどこが好きなのか、すっかりわからなくなってしまった。

 タマネギの香りに寝不足の目の奥をつんと刺激され、さざ波のように現実が戻ってくる。無為な時間をともに過ごすくらいなら、今夜にでも彼に別れを突き付けてみてもいいかもしれない。理由を問いただされたら、だって今日はとってもいい天気なんだもの、そう答えれば万事丸く収まるはずだ。フライパンの中でふつふつと煮えるタマネギのリゾットに、卵とバターを落として、くるりとかき混ぜて火を止める。上出来。昨晩のアルコールに痛めつけられた胃がおよそ17時間ぶりの炭水化物とたんぱく質を吸収する間、Sは荒んだワンルームに掃除機をかけ、きつく絞ったクロスで床を磨いた。微細な塵が拭われて、フローリングにぺたりと張りつく裸足の指先が心地いい。ペディキュアの色はカーディナル。

 えぇ今日はおやすみ致します、なんだか具合がよくなくて。オフィスに断りの電話を入れたのち、簡単な化粧を済ませた。さらりとした肌触りのシャツの裾を、洗いざらしのブルージーンズに押し込み、喉の下にダイヤモンドを一粒。左の手首に時計をしようとしたけれど、なんだか手錠のように感ぜられたので止めた。大好きなスズランの香りを首筋に落として、掌ほどに小さなバッグを掴み、深い夜空の色のハイヒールを履く。開放されるドア、ヒールがカツンとアスファルトを鳴らした瞬間、じわりと夏の匂いがした。

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 電車で向かった先は沿線の端にある街で、駅前に広がる治安の悪い歓楽街が目立つけれども、少し歩けば閑静な住宅地、隣接して図書館や文化ホールが建つという、此処はいつ来ても何とも不思議な街である。このホールに天象儀館があることをどうやらSは知っていた週の真ん中、朝一番のホールにはS以外にひと組の老夫婦が居るだけで、その閑散をSは好ましいと思った。

 Sが幼い頃住んでいた街には、老いた技師が手動で投影する小さな天象儀館があって、宇宙にまつわる全ての知識をSはその老技師から学んだのだ。あの人は今、どこで何をしているのだろう。未だあの小さな暗闇の中で、幼い子供に知る限りの宇宙の姿を説いているんだろうか。或いは彼自身が小さな星の一粒となって、新たな神話を紡いだか。星と星をつないで生み出される物語、何億年もかけて紡がれる誕生と消滅のドラマ。幾千の夜と朝ののち、やがてぶつかり合う銀河と銀河、その共鳴が生み出す壮絶な宇宙の最期、綺羅、綺羅。

 『青白き蜘蛛の網を はれるごとき空、そこには ひとつ星も煌けり。』※西條八十『夕星』より

 記憶の中の老技師の声が、奇妙に歪んで聴こえたと思ったら、代わって鼓膜を刺激したのは若い女の解説員の声だった。いつの間にやら柔らかなソファに仰向け、回転する夜空の下に在ったSは、記憶の混乱に危うく立ち上がるところだった。淡々とへびつかい座やヘラクレスについて語る声、完璧なエアーコンディション、自分がもう幼い少女でないことを思い出したSは、ほっと息をついて四肢の力を解く。巨大な天球に映し出される圧倒的な宇宙に、Sは自分を見失い、何だかとても孤独になった。稀有であることは暴力であり、美しさによる加虐であると思った。

 投影の終了間際、今朝シーツの上で眺めたのと同じ色合いの淡い黎明の空が映る。暗闇に慣れた眼をおびやかさぬよう、ゆるやかにともる室内灯に、穏やかな表情で立ちあがった老夫婦が優雅な会釈とともにホールから出ていくのを、Sはまるで夢の一幕であるかのように見送った。

***

 正午、くるみをあしらったラザニアと、ギモーヴ入りのシュークリームを楽しみながら、銀河と銀河の間の距離を反芻したSは少しだけ泣いた。Sは愛に飢えている。Sは今日も満足できずにいる。噛みしめた奥歯がやわらかな頬の内側を傷つけた、甘い血の味。あたしはもう少し強くなんなきゃならないな。Sは呟いて、自らの腹の奥に巣喰う孤独にさようならを告げ、退屈な日常との平和的共存を決意する。

[Scarab / Each day is every day, that is to say, any day is that day.]